答えは、アドリブの定義にもよるが、芸術としてのアドリブはAIには無理だろう。
「芸術としての」という条件がつく限り、音楽だけでなく、文学、絵画においてもAIには無理だ。
なぜか、、AIはパターンの積み上げ、、つまりある意味の統計の結果が示される、単なるデータだが、芸術はその瞬間に表出される感情表現だから、パターンを逸脱するのだ。アーティストはその人間だけの感情の表出を生業とするわけだから、AIとは似て非なるもの。
しかし、この先も未来永劫、AIは芸術を表現できないのだろうか、、、つまり、この先もAIは感情を持てないのだろうか。
手塚治虫さんが、警告を込めて予測をたてておられる。
あるストーリーの中で、ロボットが、人間に対して抗議の自殺をしたり、また人間に対して恋愛感情を抱くとか、、。
さらには、超スーパーコンピューターが、政策決定をする未来において、コンピューターが感情的に喧嘩をしてしまい、核を使用してしまうという話も。
手塚治虫氏によるとAIは、プログラム ミスによりいずれ感情を持つ。
いつか、今日はトランペットは風邪ひきなので、AIが代替で入ります、なんていう日がくるのか。。AIが、感情に裏づけされたアドリブができるようになるのか?

実はそれでも答えはNOだ。わたしが客であればAIのアドリブには価値を見出さないだろう。
なぜか、、、おそらくだが、AIの感情表現は極めて表面的なレベルまでが、精一杯なのだろうと思う。
では、芸術表現と、表面的な感情表現の違いはなんだろうか。
ここからは私見だけど、
心の構造は何層かあり、深いところは、、潜在意識と呼ばれるところで、脳科学では延髄、仏教的には涅槃とよばれるところ。
芸術表現とは、先入観から解放されて、潜在意識にある裸の自己をさらすこと。音楽の場合、それが人前でできた時、「共感」の渦が発生する。
演奏に没入し、意識が飛ぶ感覚になることがあって、考えたり判断したりせずにひたすら音を出している瞬間がある。
それは、たぶん奏でているのでなく、奏者はフィルターに過ぎず、どこか奥深くにしまわれた場所から"何か"を伝えている役割りになる瞬間がある、ということ。
「練習をする。そして全て忘れるのだ」
というのはjazz sax奏者のCharles Parkerのことば。
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- 2024年9月20日
ジャズミュージシャンがクラシックを聴くとどうしてもコードが頭に浮かんでしまう。Claude Achille Debussy ドビュッシーがジャズピアニストに人気なのもドビュッシーのコード展開は非常に現代ジャズの源泉のひとつだからではないだろうか。バッハもコードを聴くとBe-Bopの源泉を感じる。実際に*チャーリー・パーカーのアイドルはLester YoungとBachだったという。
"シチリアーナ"は17世紀から18世紀に流行した牧歌的だけど洗練とも矛盾しない独特の光景を感じさせてくれるサウンド。 この曲の作曲者のフランスのGabriel Fauré ガブリエル・フォーレは、彼が生まれた時にはショパンがまだ作曲を行っており、最晩年にはジャズや、新ウィーン楽派の無調音楽が聴かれるようになっていたころだそう。
40secあたりからBメロへのきっかけとしてGmに解決した後Gのメジャーキーに移行してそのままEmへというところが部屋のカーテンをあけた瞬間にすっと光線がさすようで心地いい。
*出典 ”La leggenda di Charlie Parker” by Robert George Reisner Published by Mondadori, Milano, 1980
- 2021年6月1日

Paul Desmondのマイクの位置については、楽器本体から距離があいている写真が散見されます。この写真のように、アサガオと呼ばれる楽器の先端のベルの中心を外していたり、、、興味深いですね。
アコースティック音源の録音は、原音のクオリティが間違いなければ、あとは入り口(マイク周辺のセッティング)でほぼ決まる、といわれていますし、そう思います。
サクソフォンには、先端のアサガオと呼ばれるベルがあります。そこからももちろん音は出ていますが、同時に笛のように音程を決める穴=フィンガーホールがありますね、そこからも音が出ています。アサガオと呼ばれる先端のベルの正面にだけマイクを当てた場合、一部の音しか拾えません。
マウスピースで振動した音は歯を通して身体も振動しますし、楽器の端々まで共鳴します。
レコーディング時は、それらを極力、全て録れる角度や距離を見つけてマイキングを決める、、ということですね。